はじめに
モデナ[Modena]からマントヴァ[Mantua:イタリア北部 Lombardy 州の都市。ローマの詩人ウェルギリウス/ヴェルギリウス/バージルVergil の生地]に至る幹線道路を、モデナから10マイル程行ったところにカルピ[Carpi]がある。18世紀に麦わら編(組)産業で栄え、今もその名残を留めている所である。ここは何百年にもわたって素敵なモデナのなくてはならない宝でもあった。Bernardino Ramazziniは1633年、この地に生まれた。彼の本のタイトルに時折Carpensisの名が見られるのはこのような事情による。医学史家にとっては、おそらく解剖学者誕生の地としての方が良く知られていよう。「油を塗る医師:iatraliptes(ラテン語、以下、羅語)」Giacomo Berengario da Capri、通称'Carpus (羅語:手腕)'は、梅毒用水銀軟膏によって脚光を浴びたが結局はめっきが剥げて評判を落した。Ramazziniは明らかにモデナの「Mutinensis:現モデナ人(羅語:Gallia Cisalpinaの町)」 として人々に知られることを好んだ。人生の最も実り多き二十九年を過したからである。彼はパルマ[Parma]で学び、法学と医学のどちらの道に進むか迷ったが、後に医学を志すことを決心し、三年のコースを修了して1659年2月パルマで学位を得た。彼が法や法医学の諸問題に並々ならぬ関心を持っていたことは、後の著作にしばしば見られるところである。医学の経験を積むためローマへ行き、Antonio Maria Rossi(Rubeus)に一年間学んだ。Vita(ラテン語では伝記)[脚注1:著者は、モデナで開業医をしていた甥のBartolommeo Ramazziniである]によれば、ヴィテルボ州[Viterbo]の小さな町、カニーノ[Canino]とマルタ[Marta]で"数年間"町医者を勤めたが、マラリア(四日熱マラリア)のひどい発作と黄疸のため、やむなくCarpiに帰郷せざるを得なくなった。故郷で徐々に健康を回復し、再び働けるようになった。彼はCarpiのFrancesca Righiと結婚し、息子一人と娘二人に恵まれたが、息子は夭折している。娘の一人は数人の子宝に恵まれ、この孫達が晩年寡男となってパドヴァ[Padua:イタリア北東部の都市]で暮らす彼を、秘書として大いに助けた。Carpiはモデナの枢要なある家族の避暑地であったので、往診を通じて、医者としての技術、学識、個人的魅力が彼等の知るところとなった。彼等の熱心な勧誘に従って、Ramazziniは1671年、モデナに居を移した。ここに、彼の人生の第一幕が降りる。
 この時、彼は論文一つとてない、名も無き三十八歳の医者であった。モデナは医者が多く、新参者に対する妬みと敵意が恐るべき障害となっていた。彼が名医として知られるようになったのは、Este家と公爵家の家臣達の評判を勝ち得たことが大いに与っている。
 高名なEste王朝は、数世紀に亘ってFerraraを支配していたが、1597年Pope Clement [世が、Este家の直系が絶えているとの理由でFerraraを教皇領としようとしたことから、絶望的としか言いようのない困難に直面した。敗訴した公爵Cesare d'Este(1628年死去)はFerraraより小さなモデナ公爵領に引退した。そこに1634年、現在の陸軍士官学校となる公爵公邸が建てられた。引越しに当っては、先祖がFerraraで収集した有名なアンティーク・コレクション(Museo)や蔵書、Biblioteca Estense(羅語:Este家の蔵書)、の携行が許された。移転に当って多くの宝物が紛失したと言われる。しかし、子孫が収集を増やし、現在でもイタリアで最も価値のある稿本や稀覯本の小さなコレクションの一つとなっている。CesareはEste王朝に残されたものの保全に心を砕いて、文書については何もしなかった。しかし、モデナでの後継者達がEste家の習慣を復活させた。彼等はイタリアの王子達の中では高位にランクされている。17世紀に大学や専門学校を設立し、天文学、植物学、数学の知識を持つことを誇りとしていた。Ramazzini の人生の第二幕の幕開けの年、1671年当時、Este家の公爵 FrancescoU世は、叔父Rainaldoと母Duchess Lauraの庇護の下にある少年であった。その母の死(1687)に際しRamazziniはラテン語の葬送歌を書き、モデナのアカデミーで歌った。それはVita(伝記)にも記述されている。彼はしばしばEste家を賛美しているが、不思議なことに、1673年に公爵家の若い妹メアリー王女が1685年にイギリスのジェームスU世になる王子と縁組したことには全く触れていない。虚弱な体質と痛風の激しい発作に悩まされながらも、FrancescoU世は熱心な学究の徒で、十八歳の年の1678年、モデナ大学を創立した。この大学が、1682年、S.Charlesの学院並びに全ての科学のアカデミーとして門戸を開いたとき、Ramazziniは医学理論の教授に任命された。後にFrancesco Torti(1658-1714)が同僚に加わる。彼は、初めの内は友好的であったが、その後ともに天を戴かぬ敵となる。Ramazziniは、多くの説話、演説が示すように、面白く、示唆に富み、何よりも数多くの古典の読破によって裏打ちされた実例に通暁しており、優れた語り部であった。彼は教授就任演説(1683年出版)を行い、Este家のモデナへの貢献の数々を数え上げてEste家への賛辞を述べた。その中で彼は、医学生がこの新しい大学で学位が取れるよう、公爵家の力添えのあらんことを願った。
 彼の人生の第二幕(1671-1700)は論争に始まる。それは、医学(medical)、気圧学(barometrical)、流体[静]力学(hydrostatical)に関するもので、これ以後一貫して関わり続けるものとなる。不思議なほど平穏な人生にあって、これらこそ真に刺激を与え続けるものとなった。第一回目は、1679年、胸膜炎と膿胸を患う女性患者に関するものであった。Ramazziniは往診を頼まれたが、それは彼女の医者Annibal Cerviusからではなかった。彼は気乗りしないまま往診に赴き、患者がもはや治癒の見込みがなく、Cerviusの処置を是とし、最後の手段として手術しかないとの診断を下した。数日後、この女性が死去すると、Cerviusは文書を回覧して患者と自分に対するRamazziniの態度を非難した。Ramazziniは、この文書に自分の回答を添えて公にした。両者とも、熱心に自らの所見を主張し続けたが、結局、Cerviusの方が折れた。教授就任と公爵家の庇護は彼の立場を強くするはずであったが、逆に、深刻な論争が三年間に亘って彼を悩まし、医者としてのキャリアーさえ危うくするものであった。1681年、モデナの人と結婚したフローレンスの若いMarchesa Bagnesiは第一子を産んで三時間後に亡くなった。胎盤の停留が認められたが、相談を受けたRamazziniは、死因はお産の床につく前にかかった'悪性の熱'と診断した。近所に数人の患者がいた。彼はフローレンスの家族に宛てて症状と診断書を書いた。彼等の侍医Andre Monigliaは、CosimoV世のbody-physician(侍医)でもあったが、Ramazziniの診断と処置に激しい非難を浴びせてきた。これに対するRamazziniの回答は1681年Monigliaの非難と一緒に印刷された。その後、三年間に亘って両者の間で交わされた一連の論争がイタリア語で出版されたが、これがその最初のものとなった。公爵はMonigliaの四回目の非難に対して、Ramazziniがそれへの回答を出版することに異を唱えなかった。この事件には、医学的、法医学的観点から、他の医者達も議論に加わったことは、Vita(伝記)にリストアップされている11の文書のタイトルからも明らかである。論点の要旨は以下の点にあると思われる:'悪性の熱'としたRamazziniの診断は正しかったか。妊婦は手術で救うことが出来たか。助産婦が悪かったか。Ramazziniをこころよく思わないモデナの同業者は、この不愉快な出来事を喜んだが、彼は彼等には手ごわい敵であり、辛辣で横柄なMonigliaを嫌う味方を見出していた。フローレンスでRamazziniを擁護することが危険なことは、Giovanni Cinelli(1625-1706)の逸話から明らかであった。彼は、有名なシリーズもののBiblioteca valente (羅語:健康全書)でこの論争に言及した第4部を1682年に出版したが、それはMonigliaにとって辛辣なものとなっていた。Moniglia を支持していたCosimo公爵は、Cinelliを誹毀文書のカドで投獄した。彼の本は公務執行人によって燃やされた。Cinelliは自説を撤回してMoniglia への鑽仰文を書くよう命じられたが、フローレンスから逃げ出してしまった。RamazziniはFrancesco公爵に、彼のためにモデナにトスカナ語(標準イタリア文語)の議長職を用意するよう依頼したが、彼は安月給で納得するはずもなく、あちこちで講演して露命をつなぐ放浪生活に入り、死ぬまでそれを続けた。彼はMonigliaを攻撃する機会を無くしたわけではなかったが、Moniglia(1700)の死後、非難の一部を撤回した。RamazziniのVita(伝記)で甥は、Cinelliの出版物についてのみ言及している。彼の不幸に触れたのはTiraboschiである。MorgagniはDe sedibus et causis morborum (羅語:病気の部位と原因について)[.29で、この時期に起ったちょっとした論争について述べているが、Vita(伝記)には記録されていない。ある少女の子犬が少女の唇を噛み、五日後、少女が小川を渡っている時、水に怖れをなして痙攣を起し、死んでしまった。Ramazziniに絶えず注目していたMorgagniは、これを彼の水恐怖症についての論考に記録している。その出典については、RamazziniがMonigliaへ出した第四回目の回答の原稿は公爵によって出版禁止にされていたが、そのコピーをBolognaで見つけたものから取ったとしている;"これはほぼ八年前に書かれたことである"。彼は患者が高熱も幻覚状態にもないというRamazziniの観察に関心を示した。この原稿は紛れのもなく、MalpighiがBolognaで保存していたものであった。医者への手紙の形で症例が記録されている場合の通例からすると、RamazziniはMalpighiに定期的に手紙を出していたことになり、およそ1689年に、モデナの指導的な医者であるFerrarinusの最後の病気に関するレポートをMalpighiに送っている。MalpighiはRamazziniに宛てたこの症例に関する彼のconsilia(羅語:助言)を原稿のまま残したが、それらを元にMorgagniが論文を再構築し、De morbis thoracis ][.16?17節を症例史とした。Ramazziniはいつものように瀉血に反対したが、他の医者達が譲らず、患者は七十日後に死亡した。Ramazziniは臓器障害の疑いをもっていたが、剖検の結果はその通りだった、とMalpighiは書いている。上述の事実はここではかいつまんで述べているが、Ramazzini が医学的な研究について公刊する以前に、論争と書簡によって如何に名声を勝ち得て来たかを如実に示すものである。
 Ramazziniが最初の医学論文を発表して、ヒポクラテス・タイプの疫学者としての地位を確立するのは、五十七歳になった1690年のことである。この年は彼の人生とキャリアにとって重要な年となった。一月には高名な哲学者・数学者Leibnitzがモデナを訪れ"およそ五十日滞在"した。彼の訪問は、Brunswick公爵の修史官として、Este家とBrunswick家が同じ血統であるという証拠をEste家の古文書から見つけるためのものであった。Ramazzini の人生に、この両家はしばしば様々な形で関わりをもった。1699年、Brunswickの王女Amaliaは神聖ローマ帝国皇帝Josephとモデナで結婚したが、その際、しばしば宮廷詩人の役を演じていたRamazziniはラテン語の結婚頌歌を書いた。1697年には、甥のFrancescoU世の跡を継いだRainaldはBrunswickのCarlottaと結婚し、ここに長い間疎遠であった両王家が再び結ばれたとして、両家ともに喜んだ。ルイ14世に対する夏の陣の後、Brunswick-Luneburの軍隊は1691年と1692年の冬の間中モデナに駐屯したが当地で暖かく受け入れられている。LeibnitzはモデナではRamazziniと多くの時間を過し、気圧学(barometrical)、流体[静]力学(hydrostatical)上の諸問題を議論した。特に、後者の問題については、この期間に出版した研究の内の二件のために実験も行っている。Ramazziniはこの高名なドイツ人科学者と知己を得たことが嬉しく、その訪問中の出来事に何度も言及している。
 Leibnitzは1690年、雨の多い、暖かい冬の後に襲って来た3月の大洪水の前にモデナを辞去している。この洪水でモデナ平原全体が湖と化し、市は"島のように見えた"。1689年の夏、6月のサビ病(rubigo:[羅語:黒穂病]、rust)に続く災害で、収穫はゼロとなり、洪水からの澱んだ水、農夫には慣れない魚を食べざるを得ない食卓、ぬかるみを通過して来る腐った空気、そして北よりの風が頻繁になることは、体液の'酸性悪液質'('acid dyscrasis'in the humors)の原因になるものと、Ramazziniは判断した。そんな訳で、Ramazziniは4月には田舎の人々の間に三日熱や、赤痢や下痢が流行するものと予見した。三日熱は"消化器(胃)の問題であり(gastric)、静脈性(venous)ではなく"、瀉血は不適当で、致命的となることも多い。血液が粘着性のためキニーネは効かず、そのような場合、発熱は望ましく、下げるべきではない。しかし、野良で働く人にはあまり実害はなかった。百姓はみんな衰弱していたが、医者にとっての驚きは、成人の死亡率が低かったことである。三歳以下の幼児はほとんど全員死亡した。サビ病が最悪のところでは、牛、豚、蜂、蚕が全滅した。ウェルギリウス[Vergil、70-19 BC]が叙事詩『アイネーイス』の第三部を書いたのはまさしくこのような年であった。1690年の疫病はほぼ完全に低地に限定され、好天に恵まれる年末には終焉した。Ramazziniはこれを学術論文'Constitutio epidemica ruralis(羅語:田舎の伝染病の実態)'に仕上げた。彼はサビ病の性質と原因を長々と調べ上げ、シルヴィウス[Sylvius]の熱心な信奉者らしく、露に含まれる酸が原因と結論付けた。これは厳密には田舎の伝染病であるが、十年後出したDe morbis artificum (羅語:働く人々の病気)の農民の病気の章において、そのことには触れず、三日熱についても言及していない。ただ、自分の住む田舎で真冬に四日熱の患者が出たことについては触れている。
 1690年の論文はフィレンツェの有名な司書Magliabecchiに献呈され、彼からドイツ語で回覧されたが、Curiosi naturaeのヴィーン アカデミーの会員であったLeibnitzがイタリアの医事文筆家であったCelsus(BC30-AD45:医事文筆家)の会員として知られる会長のLucas Schroeckeに推薦したことがRamazziniにとって幸いしたと言えよう。彼は1691年、会員に選ばれ、ConstitutioT(羅語:実態報告)と、更にその後Ramazziniが世に問うた他の二つのConstituionesが、アカデミーのMiscellanea(羅語:文集)(Ephemeriades)(羅語:新聞)に印刷された。Curiosiは入会が許された会員の名前と番号を記録していて、伝染病に関するヒポクラテス理論への疑いようの無い貢献から、RamazziniはヒポクラテスV世と名づけられていた。RamazziniはSchroeckに宛てて、自分の免状を見て赤面したと書き送っている。アカデミー(1652年設立)への入会が許可された自分の番号は201番だったという。Schroeckは最新の研究の動向を知る手掛りとなる、Ephemeriades (羅語:新聞)をいつもRamazziniに送っていた:会員名簿と刊行物には、Ramazziniが引用した殆どのドイツ人著者の名が見られる。1690年の暮、彼は1691年に"新たな災難"がやってくると予言した。サビ病(rubigo)によるパンの払底と値段の高騰、豆類の払底についてである。諺の言う通り、飢餓と疫病は双子の兄弟、ギリシャ語ではlimos、loimosと言い母音が違うだけである。1691年のConstitutio urbana(羅語:都会の実態)はLeibnitzに献呈されているが、そこでは旱魃、少雪、大量の砂ぼこり(dust)という異常気象について記録している。それは、カタル、胸膜炎、肺炎、卒中を伴う'リューマチ絡み'の気象であった。百姓は強健故に、あるいは、1690年の熱病への免疫故に、春の終りに始まった三日熱には殆ど苦しまなかったが、殆ど全員が疥癬に悩まされた。モデナでも、酷暑の夏に熱病の流行が猖獗をきわめた。"街路が極めて細長く、家が他所より高い"ユダヤ人居住区は、殆ど影響を受けなかった。三日熱はしばしば四日熱になった。この年はとにかくもキニーネの薬効があり、"体液(humors)の検査を必要とした"。酸の治療が有効であった。彼はConstitutio urbana を次のような言葉で締めている。"私は、Piedmontでのフランス軍との夏の戦闘を終え、当地で冬の野営をしているドイツ軍部隊のためにこれを書いている。パンがないために来年は病気が続出するのではないかと恐れている。"体調が思わしくないため、彼が1692?1694の三年間の報告を出したのは1694年の暮になったが、その論文De constitutionibus trium sequentium annorum(三年続きの穀物生産高の実態について)は彼の疫病の実態(epidemical Constitutions)に関する報告の中でも最も興味深いものとなった。もはやヒポクラテス流の気象条件に原因を求めることはせず、この三年はいずれの年も、dissimilis et discolor(羅語:種々雑多)で、季節が "気まぐれ(extemporaneous)"であったとしている。実は1692年の春分のころから三年に亘って、モデナ領の内と外で、町を問わず田舎を問わず、恐るべき伝染病の溢血熱病(petechial fever:typhus発疹チフス)が猖獗をきわめた。アベニン山脈の丘陵地帯のみが例外であった。ピーク時には平野部でも町でも、富めるものも貧しきものも、若者ほどではないが老いたものも、強健なものも'強壮(succulent)'なものも一様に苦しんだ。当時のモデナの医師達は発疹チフスに遭遇した経験がなく、手探りで原因や治療法を模索するしかなかった。まさしく、Fracastoroがいみじくも述べているように、1528年に発疹チフスに悪戦苦闘したVeronaの医者達と同じ状況であった。Ramazziniはモデナ人達の疫病の症状と特徴をFracastoroの言う'レンズ状熱(lenticular fever)'と対比して考えた。そこには、土地柄、天候、洪水、サビ病による穀物の被害等、共通した原因があった。モデナでは医者達が悪戦苦闘している頃、吸角法(訳者注: 吸角法=体表の患部に血液を吸い寄せて放血する昔の療法)で人々の信頼を勝ち得た(昔の外科医・歯科医を兼業していた)理髪師が"袋いっぱいに吸い玉を積みこんで飛び回っていた(with sacks full of cupping-glasses)"。一方、医者が行う瀉血は効果がなく、致命的でさえあったので、患者の肉親、特に、医者よりも診断が確かなことの多い女性の反対が激しかった。最初、Ramazziniは吸角法に反対であったが、後に、1528年のFracastoro、1648年の疫病におけるBorelliがそれを推奨したことが正解であったことを悟った。酸療法がアルカリ療法より優れていた。キニーネは効果がなかった。しゃっくりの発作のあったもの全員、口から寄生虫を吐いたほぼ全員が死んだ。多くの回復期に向かっている患者に致命的なことが判明したアンギナ(咽喉痛)について、Haeserはジフテリア(性)であると記している。たった一度だけ、彼は肉親の許可を受けて死体を解剖することが出来た。血液が'極めてサラサラしている'と言う意見に同意し、XLVI-XLVII章では、EttmullerとSylviusの発疹チフスについての見解を追認している。ただ、Willisや他の連中は血液が'極めてネバネバしている'という見解のままであった。この病気は空気感染に違いないとして、地中海沿岸の人々は、ビールスが南風にのってリビア砂漠から運ばれてくることを恐れた。Ramazziniは解剖に重きを置かず病気の原因を調べるよう医者達に勧めている。Historia epidemicorum affectuum (羅語:伝染性疾患の歴史)ほど過不足のないものはなかった。事実、彼のConstitutionsは同時代の人々から傾聴すべき優れた例とみなされていた。しかし、共通の原因を調べ、Fracastoroと同様、空気中にあるに違いないと結論づけているので、彼が戦争と発疹チフスの間の何らかの関係について何ら言及していないのは、我々には奇異に映る。この時期、イタリアのこの地域はドイツと共に、ルイ14世のヨーロッパにおける覇権を阻止するために結成されたアウグスブルグ同盟の戦争に巻き込まれていた。彼はConstitutionsで、ドイツ軍が1691年と1692年にモデナで冬季キャンプを行っていることに二度言及している。1692年の春まではモデナで発疹チフスの発生はなかった。我々にとっての関心事は、このキャンプや兵隊達の帰郷や田園地帯を行き交うことに伴う感染についてであるが、彼はただパンの欠乏と戦争状態の不快さに目を向けているだけである。彼は発疹チフスの伝染性については、Fracastoroの研究を通してであるにしろ、良く知っていたにも関わらず、それについてはほのめかす程度にも触れていない。De Morbis において野営病を論じた後年(1700)の章で、野営病や赤痢に関する無知のために、ドイツのキャンプで如何に多くの尊い人命が損なわれたかを学んだ旨、述べている。同様に奇妙なことは、1661?1715をカバーしているケンブリッジ近代歴史(the Cambridge modern history)第5巻が、これらの時代の打ち続く戦乱の申し子たる発疹チフスに言及していないことである。RamazziniはもはやConstitutionsを書かなかった。といのも、1694年から1700年にかけては、つかの間の平和な期間で、流行病と呼べるものはモデナで発生しなかったからである。
 Ramazziniは1691年にモデナの水源についての驚くべき論文を出版した。それは、新しい井戸という井戸全てに辿って行って実験を行い、60から80フィートの深さで気圧計と温度計を使って観測を行った結果に基づいたものである。そのような観察は未だかって行われたことがないものであった。これらの井戸はモデナに枯渇することのない最上の水を供給し、'結石を作ることもなく'、"戦に際しては王子達がガラスのボトルで献呈すべき"純粋極まりない水の源であった。旱魃があろうと、雨や雪が降ろうと、影響を受けず、汲めども尽きぬその並外れた湧水力(scaturigo)とその原因を明かすのが、この'流体[静]力学論文(hydrostatical treatise)'のねらいであった。彼は他人の理論は受け付けず、水のpromocondus、即ち、'貯蔵庫にしてかつそれを分配供給するものは'、海であり、地下水脈によって水を押し止めて、山岳に隠れた巨大な貯水庫を作り出すと考えた。そこで、大量の熱で蒸留され、砂礫層を流れ降りてモデナとその近郊に達する。彼は山の貯水庫を探し求めたが果さなかった。Malpighiは今では忘れ去られていたロンドンのThomas Burnetの仕事、地球の聖なる理論(Telluris theoria sacra)を彼に送った。これは、イギリスでホットな議論のあったノアの洪水による地球の転移についてすばらしい説明を加えたものであった。RamazziniはBurnetがイタリア人の1562年の論文を盗作したことを示し、同時に、その理論が極めて古く、Abyssinia(ETHIOPIA の旧名)の年代記に記録されていることを証明するために再版した。Burnetについてのこの暴露が、Ramazziniの仕事をイギリスに広く紹介するきっかけとなり、Burnetの論敵St Clairが1697年に一部を翻訳した。コペンハーゲンの王立図書館の司書Oliger Jacobaeusは1690年、 詩人の大叔父でモデナの法律家Ariosto(Areosto)が1462年にMontezibio(Monte Gibbio)とモデナ領域にある油井についてラテン語で書いた論文の原稿を発見した。Ramazziniは、この論文のコペンハーゲン版のコピーをもらったMagliabecchiから受け取り、モデナ人のこのような興味深い仕事を再版して、海外に広く流布する必要があることを痛感した。彼は、司書Bacchiniから別の版を、更には、モデナのBiblioteca Estense(羅語:Este家の蔵書)にあった保存状態の良い原稿を手に入れ、これを編集して1699年に出版した。更に1713年には彼の流体[静]力学論文(hydrostatical treatise)の第二版の付録に収録した。彼は1697年丘陵にある油井を探査してAriostoが述べていたハーブ、fumanaを探したが見つからなかった。Schroeckはウィーンから、ある植物学者が過去にfumanaを同定するために描いた絵を彼に送った。 発疹チフス流行の三年目に当る1694年1月、Ramazziniは医療気象学が有用たらんことを欲して、気圧計を部屋に吊してその読みを毎日記録した。1695年気圧計の記録日誌(Ephemerides barometricae)(羅語Ephemerides=日誌)を出版し、Schroeckは1696年これをCuriosiのEphemerideas(羅語:新聞、日誌)に掲載した。彼はBorelli(1608-1679)がピサで同様の観測に基づいて立てた理論「'トリチェリのガラス管'の水銀は天気が曇りのとき上昇し、大気が照らされると下がる」を正しいとはしなかった。以来、F.Tortiも加わって、長い、しかし、良質の論争が巻き起こった。キールのSchelhammerがRamazziniの主たる論敵であった。しかし、1710年になると彼の健康とプロとしての仕事がRamazziniの出版を可能にし、この論争をDe motu mercurii(羅語:水銀の運動について)のタイトルで出版した。彼の切り札となったのは、Ramazziniが正しいことをはっきりと説明したLeibnitzの手紙であった。
 1694年、公爵の死に先立つ数年間、RamazziniはTortiと一緒にこの病弱なFrancescoのbody-physisian(侍医)を務めた。公爵には子がなかったので、その叔父、賢明で如才なきd'Esteの枢機卿Rainaldoが継承した。彼はEste家として、Ramazziniへの暖かい庇護を続けた。この数年間、Ramazziniは暇があるとモデナの工場を訪ねては、工場やその取引業者から、種々の仕事にまつわる危険についての情報を集めた。彼は労働者階級に実に多くの患者をもっていた。彼が、論文De morbis artificum (羅語:働く人々の病気)を出版するばかりになっていた1700年、ヴェニスのパドヴァにおける実践医療(Practical Medicine)の長として、六年契約(契約延長有り)のSecundarius(羅語:第二位の)第二教授に招聘してきた。給料は500 florinであった。Ramazziniにとって、病気勝ちの身に気候の変化や友達との別れ、六十代で慣れ親しんだ習慣を変えることの影響等々、齢六十七になった身にこたえないのか、思案のしどころであった。なかんずく最も大きかったのは、自分の大事な患者をほったらかして、愛するモデナを去る決断であった。長い間、自由と公爵家の人々との間に培った個人的友情に慣れ親しんだ者にとって、ヴェニスの長老教会議長評議会(a Board of Venetian Moderators)から課せられる厳格な規律、仮に夏休暇でモデナに帰るときでさえ特別な許可が必要な状況に自分を合わせることが容易いかということである。長い間迷ってはいたが、そのような名誉を、遅ればせな招聘とはいえ断ることは出来ず、1700年にパドヴァへ移ることになった。ここに彼の終章が始まる。その年の十二月十二日、彼は医療スタッフと学生に向けて就任演説を行った。これが、毎年恒例となるパドヴァ説話の最初のものとなった。
 パドヴァの長老教会議長達に敬意を表して、論文De morbis artificum(羅語:働く人々の病気)を彼等に献呈したが、出版はモデナで行った(1700)。その表題がちょっとした問題となった。翻訳者にとっても戸惑うものであった。論文は男女の労働者や幅広い職業に亘っていたはずであったが、彼が選んだのは両性に共通なartifex(羅語:(手)職人、工人)とapifex(羅語:職人、細工人)であった。彼はars(羅語:術)を専門職(profession)や商売(trade)を含めた広い意味にとって、artificesを学のある人、更には、兵士、スポーツ選手、洗濯女で色分けしている。そのような人々を'技工(artificers)'や'商人(tradesmen)'と訳した最初期の英訳者の訳例は今では採用しかねる。彼が常に一次資料を得た訳ではない。例えば、モデナには鉱山はなかったし、井戸の件ではガスの危険を身をもって体験したではあろうが、鉱山に関しては一つとして入坑したことはないと思われる。彼の時代のイタリアにはスポーツ選手はいなかったので、その病気については古い文献に頼らざるを得なかった。旅行をする暇もなかったので、セルビアの塩鉱を調査に行くこともままならなかった。しかし、事実確認のために手紙を書いたり、実際に会ったりした人から得た情報源については誠実にそのことを明記した。ヒポクラテス以降の文献に表れる労働者の病気について、散逸したり根拠があいまいな文献、例えば、鉱夫へのリスクに関するパラケルスス[Paracelsus(1493-1541)]やヘルモント[Helmont(1577?-?1644)]の文献等はさておき、彼には何人かの先駆者がおり、中には健康マニュアルとして使用できるよう特別な論文を書いた人もいた。彼が引用したのは、学者についてはFicino、法律家についてはPlemp、兵士についてはScreta、Minderer、Porzio、海についてはGlauberである。しかし、彼の言によれば、自分以前には、職業病とその予防についての包括的論文は誰も書いていないという。彼はこれらの病気を原因を基に分類する;"第一に、取り扱う材料、例えば、有害な蒸気を放出する等の有害性の性質、第二に、不自然な姿勢や、粗暴乃至は変則的な運動のために生命器官の自然な構造が損なわれる。"等々。彼は治療より予防に重点をおき、少例の提案を除くと、治療の選択は医者に委ねた。慎重な医者は、新患の診断に当って真っ先に仕事を聞く。というのは、体液等の状態が従事する仕事の種類によって大きく影響されるからである。このようにRamazziniが予防を強く主張したことや、ずっと後になってMorgagniが解剖に当って観察を特に重視したのはRamazziniに触発されたと述べている事実は、開業医が驚くほどこのことに無頓着であったことを示唆している;門外漢はそんなことは今では起りえないと思い込んでいるだけであろう。半分以上の章(T-XXIX)で、労働者への主なリスクは、取り扱う材料から放出される粒子、普通は、'尖ったものと酸性のもの'で彼の好みのフレーズを使えば、per os et nares (羅語:口と鼻から)取り込まれる粒子であると説いている。粉塵、動物、野菜、鉱物のあるところは、いずこも呼吸することで大きな危険が伴う。プリニウス[Pliny訳者注:(A.D.23-79)]の時代から使われてきたガラスマスクや浮袋よりもっと効果的なガスマスクを推奨した。しかし、彼にとっての問題は他のところにあった。労働者は、彼の患者でさえ最も簡単な予防策を講じなかったのである。身なりを小奇麗にすること、休日にはさっぱりした服を着る贅沢、適度な食べ物や飲み物、それに運動、暖房のききすぎた仕事場から薄着のまま寒い街路に出るときは、'肌の毛穴を塞がぬよう'暖めること、等々を薦めても無駄であった。数章にわたって次のような言葉が出てくる:"連中は悪態をつくだけで自分のやるべきことをしやしないで"、これまでの流儀に固執する。どんなに、それぞれの肉体的条件にもっと合ったやり方に変えるよう警告しても聞きやしない。あるものは、実際自分の口でその悪態をつきながら死んで行く。Ramazziniの関心は、最底辺の労働者が直面する困難を和らげることにあったが、口をつぐんでいる彼等に、利益にしか関心のない雇い主が顧慮することはなかった。何かを口にすればクビが待っているのが落ちであった。
 In the editio princeps(editio=publishing or statement、princeps=author;著者の見解;印刷に当って)において、彼は高学歴者の病気に関する記述から始めているが、自分達がartificesに分類されたことを知って気を悪くしやしないかと、彼等にある種の弁解を行いつつ、生活するには十分過ぎる収入がある旨加えることを忘れなかった。しかし、彼等がそんな分類に憤慨したことは間違いなく、1713年の改訂論文では、彼等を別に設けた補遺Dissertatio(羅語:論説)に入れた。そこでは弁解は削除され、最初の文章を書き換えた。この部分には、'やくざな'仕事につく貧しく救い難い犠牲者に対する同情は無くなっている。年齢を問わず嫌なことに事欠かないにしても、"浮世を忘れて"猛勉強する当然のツケとして襲ってくる憂鬱も何のその、立ちづくめ、座りづくめ、運動もしない知識人達には、憐憫は無駄なことである。Ramazziniは自分の論文を1700年と1713年の二回、出版している。より一般的な四つ折り判の本ではなく、簡便なポケットサイズにしているのは、明らかに、医者が往診に行くとき携行し、患者の職業や仕事を聞いて、それに相応しい章をひもどくことを期待してのことであろう。
 1713年の我々の改訂版の補遺に付け加えられている12章の資料は、Ramazziniが夏休暇でたまたま訪れたモデナの仕事場で主に集めたものである。彼は何も言ってはいないが、晩年期には目が不自由になり観察は思うに任せなかった筈である。初期の論文とは些かスタイルが違っていたり、無用な重複があるのは、孫達に書き取らせる必要があったためと考えると納得がいく。彼はかっては必ずしていたという、植字工の傍に座ったり、校正刷りを修正したりすることが出来なくなっていた。従って、我々のテキストには初版本より多くのミスプリントがある。1700年のThe Sillabus artificum (羅語:Sillabus=sillybus=シラバス、働く人々の概要について)は42の職業をリストアップしているが、章はT−Z、\−XLVと続き、Caput octavum([)(羅語:第8章)は、理由ははっきりしないが削除されている。これは1713年版でも踏襲され、XXV章の後の章の順序を入れ替えたり、XXV章、Murarii(Masons)を、恐らくはXU章で生石灰と石膏の危険については十分記述したとして、削除しているため、混乱に拍車をかけている。従って、1703年版(1700年版の再版)後の全ての版の章番号は、これら二つの版とは異なっている。 The Opera omnia(羅語:全ての=omnia、労働=opera)の種々の版では、1713年版に関する我々のテキストの章番号を無視したものとなっており、彼等独自の表記法を採用している;ドイツとフランスの翻訳者も彼等独自のスキームに従っている。従って、この論文を章によって参照する場合、番号や見だしより、記述内容で参照した方が無難であろう。
 この論文の最初の英語版、Diseases of Tradesman, London, 1705は、意欲作であり、口語体で概ね正確であるが、二,三とんでもない誤訳もある。生き生きして、それでいて、むら気のある個性が出ているが、著者は匿名のままで、我々には著者名を明らかにする糸口がない。18世紀のほぼ全部の翻訳者に共通するが、自分が筋違いだと思ったり、どんな理由にしろ、不適切だと思ったら、文章や短い一節を断りもなく割愛してしまっている。あいまいな用語、多くは、後期のラテン語に由来する用語で自分が理解できないものは、簡単に割愛してしまっている例があちこちにある。また、昔の著者のラテン語からの引用も、常に訳している訳ではない。四十一年後、Robert Jamesはこの翻訳者が匿名であることが幸いして、その版を自分自身のものとして再販できた。Robert James博士(1703-1776)は高名な作家G.P.R. Jamesの祖父にあたる人物であるが、良く知られた業績A medical dictionary(1743-1776)の著者で、生石灰のリン酸塩と砒素の酸化物を主成分とし、強い発汗作用のある特許解熱剤'James's powder'の発明者でもあった。これは、Goldsmith(訳者注:英国の作家;1728-1774)を殺したと言われ、Sterene(訳者注:英国の作家;1713-1768)によれば自分も死にそうになったという。Jamesは、1746年にDisease of Tradesmenのタイトルで、1750年にはHealth Preserved…のタイトルで出版されたDe morbis artificum (羅語:働く人々の病気)の翻訳者としての方が名が通っている。彼は、1705年版の匿名著者には何も言及せず、'新しく翻訳した'とタイトル・ページで述べているが、editio princeps(羅語:著者の見解)の後の版を再出版しただけで、我々の改訂版に相当する1713年の補遺に至るまで無視したままであった。確かなことは、ちょっとした用語の変更をいくつも行っているが、その目的はスタイルを洗練させることと、口語調の抑制にあった。しかし、彼の語彙力は匿名版のそれより正確なことは決してなく、力強さもどこをとっても劣っている。彼の用語'fizy'(血液の:Pringle and Huxhamもlentus、(羅語:sticky)を粘着性を表現するのに使っている)、'entirely naked(全裸)'、'afflicted(打ちのめされる)'、'calamities(災難)'は、匿名版の' gelly-like(ゼリー状)'、'stark naked(すっぱだかの)'、'mauled(ひっかき傷を負う)'、'plagues(悪疫)'より説得力がない。彼の用語の言い換え、例えば'discolour'を'discolor'に変えたのは英国での慣用が一時的に変化したことを反映している。それでいて、間違いは全く正していないし、自分が割愛したところを補足もしていない。従って、彼は匿名版をラテン語のテキストと照合する労を取らず、ただ単に自分の変更した部分のみを潜り込ませた匿名版のコピーを印刷しただけとの謗りを免れない。しかしながら、Jamesは1713年に付け加えられた補遺12章を最初に英訳した人となり、その原典には1713年版かOpera omniaに印刷されているのと同じテキストを使っている。しかし、Ramazziniがテキストに加えた変更や原著の初版の配列を換えたことについては、何ら顧慮していない。補遺に関する彼の版には、テキストの2行から14行に及ぶ多くの割愛があり、ラテン語の誤読による間違いも数件ある。匿名版は長い間、殆ど出回っていなかったので(参考文献参照のこと)、Jamesは1700年のテキストを代表するリプリントの供給者として、また、彼の二つの版がRamazziniの論文をイギリスの読者の記憶に留めるという大きな貢献をした。Farrは1885年Vital Statistics(生命の統計)p.404で、翻訳(農民の章にあるpro delitiis(羅語:ああ、密やかなる者)に関する匿名氏のきれいな訳)を'花束'と称えて、更に、"James博士は逐語訳しないときは、随分苦労しただろう"と付け加えていることから、匿名版については知らなかったことを示している。匿名氏の労作を自分のものとして出版するに当って、Jamesが当時の社会慣習からかけ離れて無節操だったわけではない。また、彼が補遺以外の論文の任意の部分を訳了しようにも出来なかった事実を、出版者や知人に内密にしていたのかは、今となっては詳らかではない。
 次の十年、Ramazziniは教授の仕事に専念し、健康が優れず、視力が次第に衰えることもあって、出版は、パドヴァの自分の学生に対して行った毎年の説話のみに限定されている。パドヴァの先任教授は1699年から実践医学の教授であったFrancesco Spoletiであった。RamazziniのVita(伝記)において、甥によれば、トルコに派遣されたヴェニス使節団の医者としてコンスタンチノーブルに滞在中のSpoletiは、激しい頭痛に襲われ、終には盲目になったという。このことについて、我々はMorgagniがDe sedibus…Epistola XUで述べている次の所見を付け加えておく。"自分の経験では、Spolctiの例は盲目になる二つのケース、即ち、視神経を司る脳のある部位が大きく萎縮したか障害を受けたか、のどちらかであろう。他のもう一人、Aeneas Suardo伯爵がコンスタンチノーブルで頭痛に襲われ、ともにイタリアへ帰国後、卒中で死亡した。私は彼等にアドバイスをした。"(Epistola[.5)(羅語:書簡)
 共に似たような健康状態から、彼等は互いに親しくなり、Spoletiが1707年引退すべくヴェニスを離れたい旨願い出たとき、七十四歳になったRamazziniも後に続こうとした。しかし、8月、Triumviriがこれまで教授会の第一人者の指定席であったヴェニス大学の総長にRamazziniを任命する旨、伝えてきた。終には、彼が昇進を望んでいるかのような立場に立たされた。しかし、1709年にSpoletiの後の議長に任命され、気が向かない場合は講義をしなくとも良いことになった。Vita(伝記)での甥もFacciolatiも、それでも彼が長老会議長連の意中の人ではなかったことに触れていない。しかし、Ramazziniは最初の就任演説で、最も傑出した人物であるAlessandro Borromeoが任命さるべきであるので、自分は立候補を辞退したと述べている。"敬虔で練達の貴族政治家である"Borromeo伯爵の突然の死が、タイミング良く(1708)訪れ、Ramazziniは、彼の言によれば、suffectus(羅語:代り)で就任した。彼の給与は750フロリン(florins)に上がった。
 ところで、ヨーロッパ、特にイタリアでは人の記憶にないほどの寒い3ケ月(1708、12月―1709、4月)に苦しみ、Ramazziniはその就任演説で、異常なHyemalis constitutio(羅語:冬の実態)に言及した。これは、数人の論文、特にLancisiの論文に刺激を与えた。パドヴァでは、肺炎や胸膜炎等での致死率が大きかった。Ramazziniは次のように結論している。
 恐るべき寒気の後に、大きな暖気と寒気が交互に襲う異常に多湿な春が続いた。ヒポクラテスも全く同じような状況に遭遇している。そこで、彼のAphorismV.XT(羅語:金言)は我々にこう警告している。流行性の急性の熱は、necesse est(羅語:必然なるもの)が免れない。従って、この夏には高い致死率を伴う急性の熱病が流行するであろう。私は残された時間を利用して流行性の急性熱についての講義を行う予定である。 上の説話はヴェニス地方の凍てつく冬の痛ましい影響を従来通りのやり方で記述しているかに見える。 1709年、彼は健康のためにモデナで夏休みを過す許可をやっと得た。同じモデナ人の年下の同僚、親友でレッジョ[Reggio、イタリア南部]の生理学者Antonio Vallisneri、及び、1714年の彼の最後を看取ることになる者の内の一人がお供をした。モデナでは、Ramazziniは、公爵RainaldT世、後にその後継者FrancescoV世になる十一歳の少年の拝謁を賜った。友好的な公爵に礼儀を尽しながら、その著De Morbis(羅語:病気について)のために研究した健康マニュアルの中の一つでも、しばしば健康の不調を訴える王子になぜ献呈しなかったか、不思議である。彼は晩年の公爵のbody-physician(侍医)であり、他の様々な職業の危険について研究しながら、多大な恩顧を受けた家族の健康維持への手引きを与え損なったことになる。何はともあれ必要なものであった。というのは、当代、先代、先々代の三代に亘ってEste家は活力を無くしていたからである。彼の若い保護者Francescoは痛風の犠牲者として三十四歳で、彼の父Alfonsoは三十八歳、祖父は四十八歳で死んでいる。だから、Ramazzini はRainaldoに何を執筆しているかを尋ねられて、自分は王子の健康についての論文を書く計画がある旨伝え、それを若い王子に献呈する許可を求めた。パドヴァに帰ると、他のことは一切ほったらかして、王子の健康についての論文De principum valetudine(羅語:健康の要諦)を1710年に脱稿した。しかし、パドヴァの出版者Conzattiは、出版費用のリスクを考えて最初に拒否した。医者は病気を治すために読むのであって、予防するために読むのではないという理由からであった。いずれにしろ、body-physiciansに至ってはもっと少ない、というのがConzattiの考えで、彼はベストセラーを見込みそこなったことになる。Ramazziniはそれを自費出版した。Lancisiへの手紙では、著作には誤りがいくつかあり、自分が今頼らざるを得ない孫達は逸話の一部や繰返し部分が抜け落ちているのを見過しているのは確かであると書いている。 彼の言によれば、モデナの学会は論文を早く世に出したくて、十分な校正をしなかったという。論文はヨーロッパ中のbody-physicians(侍医)から熱狂を持って迎えられた。Pope Clement]Tの医者であったローマのLancisiは言った、"これはまさしく黄金の作品である"。版を重ね、数カ国語に翻訳された。医者達が満足したのは当然であった。Ramazziniは完璧な技術を持ち、あらゆる医学的機能、心と体の諸々の活動、はては最も単純な娯楽までも差配する優れた医者達の対象たる王子や貴族を視野においていた。彼もプラトンのように考えていた節がある。即ち、中庸はひとたび居場所を見つけると、いつも顔を出す。理性は直感に勝るからである。王子達は最大の危険、即ち、結石、痛風、関節炎から守られ、体重もほどほど、従者達の賞賛のもととなる均整のとれた体躯をし、宮殿に子供達が沢山いれば世継ぎの問題もない幸せ者たちである。ヨーロッパで最もバカな王子がいるとすれば、それは、こんな幸せな環境にいながら、この個人的自由を諦めざるを得ない憂き目に遭う連中であろう。しかし、王子達がこの本を読んだかどうかを知る手掛りは、今となってはない。いずれにしろ、body-physician(侍医)達は、今やどんな患者にも対応できる権威ある参考書を手にした。しかも、献呈された少年、後のFrancescoV世は、慈悲深く人気のある公爵として八十二歳まで生きた。しかし、彼の医者は1730年までは、Ramazziniを快く思わず、彼の助言などには耳を貸そうとはしなかったTortiであった。いきおい、論文は、Ramazziniが廃疾王子の医療の面倒を初めて診るようになった1701年、学生達に与えた説話V(OrationV)、ut plurimum valetudinarius(羅語=How many hospitals 幾多の病院)ほどには、body-physician(侍医)達に光明を与えたわけではなかった。そのような訳で、金持や高貴な連中ほど、Ramazziniの論文に感謝すること甚だ少なく、言うことを聞かない患者と言えた。労働者階級は、主に日々の労働故に、あらゆる慢性病、特に、フランス人の病気lues Celtica(羅語:西部ヨーロッパ、主にGallia住民の病気)を容易く治すことができた。この病気については当然のことながらbody-physician(侍医)向けに書かれた論文には記述されていない。
 Ramazziniは、Este家に相応しい健康マニュアルが他にもあってしかるべきと考え、1713年Rainaldoの若い息子、Clemente Giovannio王子に、1558年に出版されたAlvise Cornaro の有名な論文Discorsi intorno alla vita sorbia(De vitae sobriae commodes;羅語:快適な節制生活について)への注釈書Annotationes(羅語:注釈)を献呈した。これは、節制生活の利点を説いた古くからの言い伝えとしてヨーローッパ中で知られていたものであった。Ramazziniはイエズス会士Lessiusのラテン語の版を印刷したが、彼によれば書き換えはしていないという。その代り、自分の意見は注釈としてイタリア語でテキスト中に書き入れ、長さは原典のほぼ二倍に達した。この古いヴェニス貴族の曖昧な医学理論、例えば、動脈は生気を含むとか、Cornaroの意見を自分自身の実例にまで拡大して考えた医学知識を丁寧に修正している。これらの中で最も興味を惹かれるのは、Gaspar de los Reyes of Lisbon の中で彼が見つけた、イタリアの貴族Francesco Pecchi(単にPecchio)の実話についてである。五十歳で痛風と関節炎のため歩くことが困難になった彼は、たまたま宿敵の待ち伏せに遭って捕虜となり、汚い地下牢で十九年間、幽囚の身となった。かの捕獲者は彼を殺そうとはせず、生かしておいて"毎日、死の恐怖に慄かせる"こととし、毎日パンの皮と僅かな水しか与えなかった。フランス軍が城を攻略して、やっと彼の長い牢獄生活が終わった。着ているものはボロボロで、幽霊のように見えたが、剣を帯びて驚くほど機敏に振舞い、彼の業病は完全に治っていた。Cornaroその人も遊興にふける生活を送っていたが、四十歳のとき改心し、精進に勤めて一年間で痛風、微熱、腎障害、胃弱を克服した。多くの経験から、彼は、毎日の食餌を、食べ物は12オンス(訳者注;1ounces:約28gまたはcc)、ワインは14オンスとすることで完全に健康を保てることを見出した。ある友達が自制に不満たらたらだったので、Cornaroは許容量を少し増やした。効果は覿面で、たちまちぶり返して、彼の正しさが立証された。多くのヴェネチア人と同様、彼もパドヴァ近くに広い土地を持っており、沼を干拓したり、別荘を建てたりして、活発な老後を過した。彼が八十歳をとっくに過ぎた頃、パドヴァの教授が彼を招待し、成功の秘訣を講義してくれるよう頼んできた。彼等は彼が自分達の誰よりも年長だからそこまで長生きする秘訣を聞いて来た訳では無かった。自分達も十分長命だったからである。彼等が聞きたかったのは紛れもなく、如何にして四十歳まで、健康のあらゆる法則に抗って、その罰を受けないで済むかであった。彼は警告して言う。人は我のように自堕落な生活をし、それでも老いてなお盛んな人にあやかりたいと言うかもしれないが、それは数十万人に一人いるかいないかでしかない。それを聞いてみんな無言で去っていった。Addisonを含む数人の著者が、Cornaroは優に百歳を超えても生きていた、と言っている。しかし、いつ死んだかは確かではない。彼はCardinal Bemboによる賛美歌を口ずさみながら死んだ。
 Cornaroについての彼の注釈作業とDe Morbisの改訂用の新しい資料の収集は、1711年11月9日に教授会と学生達宛てになされた説話Vで彼が述べているように、突然中断された。ヴェニスの議会は医学校に対して、夏に発生した恐るべき牛の伝染病が、10月にピークに達し、依然ヴェニス全域で猖獗を極め、更には、ローマにまで害が及んでいることについて調査し、報告するよう求めて来た。彼は、過去の伝染病の歴史を調べ、(伝染性を助長するに違いない)共通の原因を探り、Dalmatia(ユーゴ西部)からさ迷い出てBorromeo家族の農場に迷い込んで、ハーブに病菌を撒き散らした小動物への感染源を追跡し、解剖学の教授、MolinettiとViscardiによる解剖の結果を示し、健康な牛がmorbosum seminium (羅語:病の種族)のキャリアーたりうるかを検討し、清潔、隔離、消毒の必要性を説き、発熱の最初だけキニーネの投与を薦め、それでも今のところ決定的な治療法がないことを残念がり、これまでと違って、可能な治療法、動物、野菜、鉱物の長いリストを提示した。ヴェニスはそれぐらいは覚悟していた。そしてこれが彼のパドヴァでの説話の最も重要なものとなり、当然のことに公式文書となった。それはHaeser3.415に引用されている。価値は劣るが、歴史的興味としては、1713年の説話]Xがある。これは、主にウィーンの郊外を襲った牛の伝染病について述べたものである。彼はギリシャのアンソロジー(名詩文集)から借用した表現'貧乏人の胎児'the plague mysoptocaと呼んだ。1713年はプラハでもウィーンでも僅か1%の犠牲が出ただけだった。彼は伝染病には簡単に触れただけで、その殆どを、ヴェニスの議会がすばやくかつ厳重な隔離策を取って全領土を感染から守ったことへの賛辞にあてた。夏の間ずっと体調が優れず、伝染病の原因を十分調査出来なかったことが彼の嘆きであった。彼はヨーロッパ中の出来事を知らせる広報に頼らざるを得ず、"これらは、毎週届き、Orations(説話)を書くに困らないが、私は年を取り過ぎた"と嘆くしかなかった。
 De morbis artificum(羅語:働く人々の病気)の1713年の改訂版に加えて、彼の最後の仕事、後に大変な論争を巻起すキニーネの乱用に関するDissertatio epistolaris(羅語:書簡論文)De abusu ChinaeChinae(羅語:キニーネの乱用について)を書く作業に専念し、1714年7月の日付で、Vita(伝記)の著者で、その後モデナの開業医となる甥Bartolommeo Ramazziniに送った。これには、当時出回っている数が極めて限られていて、Conzattiによれば、需要の高かったConstitutionesを付録に付けた。Ramazziniは、自分がキニーネについて書く必要性を痛感した契機は、モデナの医者達がキニーネを大量に投与しているが、それをどう思うかと尋ねてきた甥からの手紙にあったとしているが、これについて甥は、Vita(伝記)の中では、攻撃を開始するに当っての叔父一流のレトリックであるとして自分の関与を否定している。この作品はモデナで、特に"名だたる医者達"に大きな一撃を加えるものとなった。これには当然のことながら、Tortiも含まれている。1712年の彼の有名な論文Therapeutice specialis ad febres periodicas (羅語:周期的な発熱に対する特別な治療法)は、Haeserの言葉を借りると、ヨーロッパ中のどの論文よりもキニーネの使用を推奨していた。Tortiは'モデナのヒポクラテス'の呼称を奉られていたが、事実は、お世辞が時に的外れであることを示している。Ramazziniの論文は名指しこそしていないが、明らかにTortiを標的にしたものであった。"彼はモデナの医者達を攻撃しているけれども、私のみが悪くて、他の人達を貶めていると信じている"と1715年モデナの同僚に宛てたResponsiones(羅語:答弁)で述懐している。TortiはRamazziniの矛盾をつくべく、Ramazziniが昔の論文でキニーネの使用を推奨した部分を、De abusu Chinae Chinaeから取った一節と共に印刷した:"残念なことに、フランスではすっかり定着しているキニーネの使用をとやかく言われるのはイタリア人という訳だ"。Vita(伝記)では、Ramazziniの甥は公正を期して次のように述べている:Tortiは、適量を、すぐに服用させるのであれば、キニーネはある種の間欠的な発熱に効果があるとした叔父の本当の立場を誤解している。Ramazziniによれば、自分は1?2ドラム(訳者中:1drachm=約1.77g)を処方し、治療に当ってはSydenhamとMalpighiが説くような細心の方法を取っている。しかし、長年の経験から、キニーネに疑問を感じるようになった。彼が記録しているいくつかの症例の中で、Richard Lowerとその同僚Thomas Shortの場合は致命的であって、予防という観点からは、信頼を置けないと言うのがRamazziniの見解である。彼の最後の版をパドヴァの長老会議長(Moderators)に献呈するに当って、次のように言い添えている:昔の人々は、'インド人の薬'Indum istudより遥かに安全な解熱剤を使っていたので、その作用について我々が何も知らないIndum istudの処方は経験に頼るしかありません。長老会議長の皆様が決して服用しないことを希望します。
 1714年の二つの論文は彼の最初と最後の仕事が含まれている。出版から3ケ月たった1714年11月5日、彼が八十一歳の誕生日を迎えたその日、午後の講義に行くための準備中に極めて重い卒中にかかり、十二時間もたずに死亡した。Morgagni、Vallisneri、スコット人の血筋をもつ教授Alexander Knips Macoppe達がRamazziniの家に駆けつけたが、間に合わなかった。生前、彼がDe morbisの中で教会に埋葬するという野蛮な習慣を嘆いていたが、遺体はパドヴァにあるS.Helenaの修道女の教会に埋葬された。
 墓がなかったので、遺体はおそらく納棺されて地下の納骨所に保管されたと思われる。甥のBartolommeoはVitaの最後のページに適当と思われる墓碑名を捧げた。パドヴァが1933年Ramazziniの300年祭を祝った際、この極めて慎み深い墓碑名が石に刻まれて、S.Helenaの教会に納められた。Ramazziniの死後十三年間、彼の後任は空席にされたままであった。Facciolatiのような候補もいたし、著名な人物もいたが、TriumviriはRamazziniを継ぐに相応しい人でなければ任命しようとしなかった。しかし、Tortiの伝記作者Muratoriによれば、1720年Tortiに後任の打診があったが、彼はモデナに残りたくて断ったという。1727年Macoppeが任命された。
 Morgagniの論文De sedibus et causis morborumが出版されたのは1761年であるので、Ramazziniの甥はおそらくそれを読んだことはないと思われる。弱冠二十九歳の有名な病理解剖学者が、第一教授(Primarius)になったVallisneriの後任として医学理論の第二教授に任命されてパドヴァにやって来たのは1711年の末で、彼は翌年の4月12日、就任演説を行っている。彼は二年間、Ramazziniの謦咳に接したが、それより数年前パドヴァで知己を得ていた。彼は既に大論文のための資料を集めつつあり、いずれ自分の結論が立証されたときのために、友達やはるかに年長の同僚の病気に関するノートを取っていた。そのため、Ramazziniの症例記録やパドヴァの二人の先輩教授、SpoletiとVallisneriのそれと同様、MorgagniのThe seats and causes of diseasesに保存されている。彼の方法は主に医者を対象としたEpistolae(羅語:書簡集)に自分の患者の生活歴と、可能な場合は解剖による記録を点検することであった。彼はRamazziniの症例をDiseases of the head(頭の病気)、その副題Apoplexy(卒中)に上げている。私はEpistolaV.8-9にある彼の記録のより重要な部分を訳しておく。
 卒中は我々の尊敬する同僚Ramazziniを十二時間もたたない内に奪い去ってしまった。いつのころからか豆粒より小さな二つの動脈瘤が、極めて稀なことに両方の手の甲の正確に同じ位置に出来た。その位置は親指と人指し指で出来る頂点であった。私の記憶では、高齢な男性が同じ症状を、しかも最晩年に示すことが多い。彼は以前から悩まされていた心臓の激しい動悸と、それに続いて起る動悸ほど激しくはない片頭痛について、私に良く話していた。経験豊かな外科医Masieriは、その著書からも明らかなように、加齢が進んだ老人に極めて顕著なものとして、頭蓋骨の縫合線が剥離することを発見した。これについては、BonnetのSepulchretum(羅語:墓地)、Ettmuller等々に多くの実例があることは私も知っているが、Ramazziniの年齢に近い七十台の男性に同じ程度に起るかどうかについては分らない。老人の縫合線を切り離すのは、どんな力をもってしても難しいことは、私にも分る。卒中になる前、動悸や片頭痛が止まって、視力を失った。初めは片目、後に両目の視力をなくし、死ぬまで視力を回復することはなかった。彼は私の能力をかってか、これらの病気について説明してくれた。全ての事実を勘案すると、心臓の動悸の原因と同じ原因が片頭痛を引き起したことはほぼ確実であろうと思われる。ある動脈と恐らくは眼球の脈絡膜叢内の血液が、痛みを伴う収縮のために遮断されて、これらの動脈が、両方の手に症状を呈したのと同じ異常 (vitium(羅語:疾患))を起したものであろう。これが次第に進行して、視神経の視床を圧迫し、ついには盲目となった。最後はこれらの小さな動脈が破裂し、血液が脳室に流入して致命的な卒中となった。この尊敬すべき翁の体は解剖されなかったので、…卒中と空洞は同時に形成され…医者、いや、むしろ極めて稀なアクシデントが医者を助けなければ、どんどん進行するものであるので、私の推論が正しいかどうかは定かではない。Morgagniの実にみごとな索引付の論文は、Vitaを補うRamazziniへの参照がある。Morgagniは自ら行った解剖被験者の職業を記録したほうが良いという忠告を守り、索引の一つに"病気と症状に加えて、どのような人生であったか、職業、特記すべき仕事を加味し、将来誰かが、Ramazziniの論文De morbis artificum(羅語:働く人々の病気)を下敷きに新しい論文を書く場合の参考にと、類似の仕事(trade)、死体(cadavera=羅語:死体)に認められた損傷"を記載した。この些かお節介な指図に従ったのは1780年のAckermann、1822年のPatissierで、二人共Morgagniを使わず、それを切り刻んで、Morgagniが想像もしなかったやり方でRamazziniのテキストを増補・改訂した。
 Ramazziniの人柄や、その日常についは、我々は、1717年に出されたOpera omnia(羅語:全業績)の中のポートレート(Ramazzin、八十一歳のときのもの)と甥が書いたものに依拠する:
 彼は通常の肉体的バランスに恵まれ、情熱的ながら沈着な気質、やせ気味の中肉中背、顔色が悪いのとは違う色白、髪は黒く縮れ毛、若くして白髪になったが、その気品故に目立たず、最後はカツラを着用した。澄んだ黒い目は人を魅了した。リーキ(leek韮葱)の大きさ、形をしたコブが耳に近い右頬にあったが、顔つきを損なうほどではなかった。足早に歩くため、彼の医学的知識を学ぼうと付き添ってくる学生達が追いつくのは容易ではなかった。よほど怒りが収まらない場合を除いて、怒ることはめったになかったが、怒ったとしても理由なく怒ることは決してなかった。ただ、学問の探求に関しては、論争や自分の信じる理論の防衛のためにはカッとなることが出来たし、事実そうした。家庭のことには全く無頓着であったが、それ以外は、働き者であったし、熱心な観察者であった。医者として必要なギリシャ語も十分知っていた……記憶力抜群であった。着こなしを良くするのが好きで、浮薄であったりナルシスト的な医者を軽蔑した。人が狂犬や蛇を嫌うように勝負事を避けたが、チェス(draughts?:チェッカー)を心行くまで楽しみ、うんざりするような日常の患者から開放されたときは、何度でもFrancesco Piacenza博士とチェスゲームに興じた。…季節を問わず昼も夜も渇きを訴えていたので、眠りから覚めると乾いた喉を潤すためにposca(酢と水の混合液)を手元においていた。…公衆の前で何かするときは、初めは特に、極度に内気で神経質であった。…学識豊かな人との友情を熱心に、かつ、彼等全てが自分に払う親愛の情や尊敬と同じ敬意をもって、死ぬまで大事にした。

 Ramazziniは異常なほど旅をしない人であった。イタリアを出たことがあるという証拠は全く無いし、ローマでの日々、若き日に医学研修のために小さな二つの町に住んだこと以外に、モデナやヴェニス以外のイタリアの都市を訪ねたことがあるという証拠もない。パドヴァでは、ヨーロッパ中から学生達が集まって来ており、国毎に分別するのは好都合であったので、Ramazziniは自分の間違いに気づいていたに違いない。死の数日前行われた最後のパドヴァでのOrations(説話)において、彼が問いかけた話は、情報に精通し高い評判を得るためには、博士たるものは若いときに、Galenのように"ジブラルタルからガンガー川(英名ガンジス川)までとは言わないが" 彼の例に倣って、あちこちにそして遠方に、出来れば、少なくともイタリアの重要な全ての医学校へは、Galenのように徒歩で旅行しなければならない、と言うものであった。本に頼っていては致命的である。
 彼のラテン語のスタイルについては言うべきことはほとんどない。通常明確であり、正確さについても、彼と同時代の有名な医事文筆家と同程度である。当時、節を表現するのに(ラテン語特有の)動詞状形容詞(gerund)をルーズにくっつけるのが常態化し、その昔のラテン語では医学用語とは限らない言葉が医学用語として使われるようになっていた。しかし、Ramazziniは医学校のラテン語として熟しきっていない用語を使うことに、嫌悪を感じていた。tabacumは不承不承認めたが、herba Nicotianaの方を好んだ; China Chinaよりcortex(羅語:コルク)Peruvianusを、トコンの根(ipecacuanha:吐剤用)は radix(羅語:根)quaedam 等々である。gasと言う言葉はHelmontからの引用のときのみ使用した。'alcohol'という言葉も、例えばJungkenの字彙(Lexicon) Chimco-pharmaceuticum(Nuremberg,1699)等で、使われ始めていたが、彼は絶対に使わなかった。'syphilis'(梅毒)なる言葉はFracastoroによって一般化していたとRamazziniは言っているが、彼は当時の医事文筆家達の間でより一般的に使われていたlues venereal(羅語:leus=疾病、venereal=不行跡の、性的)(Celtica Gallica) morbus Gallicusをいつも使っていた。彼の労作は古典から引用したイラストが多過ぎるように思われるが、パドヴァで雄弁な話者として評判を勝ち得たのはそのためでもあり、それに適切な引用があったからである。最も注意深く書かれたものは、第15回のPaduva Orationsであるが、そこでもありきたりの修辞を避けて、後の為に17世紀の医学の発達についての概要に心を砕いている。実践医学が、この世紀における生理学者の輝かしい発見について行けず、それによって権威を失墜したことに、Ramazziniは重大な懸念を抱いた。この問題に関するOration]U(1710)は、この種の公式弁明書のどこかに掲載しておく価値がある。しかし、彼は最後まで、Sydenhamと同様、体液(humors)の重要性と気質(animal spirits)と生気(vital spirits)の存在は信じていた。
 1932年6月、Sudhoff教授がドレスデンの社会衛生博物館(the Museum of Social Hygiene)で二つの胸像の序幕をした。そのときのために作られ、二人の生まれ故郷の町が贈呈したブロンズ像で、一つはRamazziniの、もう一つはFracastoroのものであった。1933年、Ramazziniの300年祭がイタリアで行われた。社会衛生関係のイタリアのジャーナルは、RamazziniをIl Ramazziniと呼んだ。イタリア人やドイツ人からのこれらの贈物のことを、Ramazziniは漠然と予見していたのではあるまいか。自分の病気についてのMorgagniとの頻繁な議論を通じて、彼は自分がいつの日か、論文De sedibus et causis morborum (羅語:病気の部位と原因について)の中に名を残すのではないだろうかと、予想しえたに違いない。しかし、彼の名前がヒポクラテスの名前の次に上げられるべきものであり、ニューヨークのFoley Squareにあるthe Departments of Health, Hospital and Sanitation局の建物正面の庇上に称えられているHarvey(訳者注:1578-1657、血液循環説を唱え、近代生理学の基礎を作る)の名前からもほど遠くないということは、自分の将来の名声についての彼の予想を越えるものであった。これらの贈物の全てが「働く人々の病気」についてのもので、疫学者としての彼の名前を高らしめたConstitutionsと科学の他の分野における熱心な実験については完全に無視されたことは、Ramazziniを驚かせ、がっかりさせたものと言えようか。しかし、彼は常に客観的であることに徹し、自分を対象とする何らかの書誌学は、この本のように、書誌学以上の何かであることを期待していたのではるまいか。